大阿闍梨の教え その二
霊障に悩み、大阿闍梨に相談した知人。
返ってきた言葉は──
「霊を取るのは簡単。だが私はやらない」。
一見、冷たくも思える答え。
けれど、それは相手の人生を本気で思うからこその言葉でした。
霊を取り除くことよりも、自分自身が変わること。
それこそが、本当に現実を変える力になる。
シャーマンとして浄霊をする今だからこそ、あの教えに立ち返ります。
次回は千日回峰の答えをお話しします。
「千日回峰行 失敗」で検索しているときって、多くの場合「途中で倒れたら?」「やり遂げられなかったら人生終わり?」「脱落=失敗なの?」みたいな不安が強い気がします。私も修行やスピリチュアルの現場に関わる中で、結果だけで自分を裁いてしまう人を何度も見てきました。 まず、千日回峰行は比叡山の行者が長い年月をかけて行う極めて厳しい行です。外から見ると“完遂か未完遂か”の二択に見えやすい。でも、ここでいう「失敗」を単純に「やめた=ダメ」と結論づけるのは、実は一番しんどい捉え方だと思っています。 私が大阿闍梨の教えとして強く残っているのは、「その霊を取るのは簡単。でも私はやらない。君は取っても同じだから。自分で引き寄せているんだよ」という、甘やかさない言葉です。霊障や不運を“外側の原因”だけにして、誰かに直してもらうことに慣れると、形を変えて同じテーマが戻ってくる。これ、修行にも似ていて、「うまくいかない現実」だけを消しても、本人の姿勢が変わらなければまた同じ壁に当たります。 だから私の中では、千日回峰行の「失敗」って、途中で終わったかどうかよりも、次のどちらかで決まる感覚があります。 1つ目は「現実の原因を全部外に置いたまま、何も変えない」こと。苦しさが出た瞬間に、環境や誰かのせいにし続けると、たとえ場所を変えても苦しさの質が変わりません。 2つ目は「本当は変われるのに、変わらない選択を積み重ねる」こと。たとえば、体調管理・睡眠・食事・人間関係・言葉遣いなど、地味な部分を整えずに“奇跡の解決”だけ求めてしまう。霊障でも修行でも、ここが抜けると立て直しが効きにくい印象があります。 逆に言えば、たとえ道半ばで止まったとしても、そこで自分の癖(逃げ方・頼り方・被害者意識・過剰なプライド)に気づいて、暮らしや心を整え直すなら、それは「失敗」より「転機」になります。私自身、浄霊や供養に関わる中で、目の前の症状を軽くすることはできても、本人の生き方が変わらないと同じテーマが戻るケースを何度も見ました。だからこそ、外側の出来事より「自分がどう変わるか」が現実を変える力になる、という言葉に立ち返ります。 もし今「千日回峰行で失敗したらどうしよう」と怖くなっているなら、完璧にやり切ることだけを目標にせず、「自分は何を引き寄せているのか」「変えられる生活習慣は何か」「誰かに任せきりにしている部分はないか」を静かに見直してみてください。そこに手を入れた時点で、もう“失敗だけの検索”から一歩抜け出せるはずです。