81年前の沖縄戦で日本軍の野戦病院として使用されていた糸洲第二外科壕跡で。
「糸洲第二外科壕」は「沖縄陸軍病院第二外科壕」として利用され、負傷兵が運ばれました。
糸満市にある糸洲第二外科壕は、ひめゆり学徒らが避難した壕で、1945年の6月18日にアメリカ軍の攻撃にあい、兵士や住民などが命を落としたという証言が残されています。
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第二外科壕の糸洲壕は非常に狭く、じめじめの壕で軍医、看護婦、衛生兵に学生80人ぐらいがひしめき合ってただ隠れていたんです。その頃、すでに患者の看護活動もなく、完全に陸軍病院の機能を失っていました。
照屋信子さんの証言:ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック 展示と証言より抜粋
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(6月18日正午ごろ)それからどのくらい時間がたったのでしょうか。不意にパンパンとすさまじい銃声が起こり、境内は黒煙に包まれパニック状態。「やられた、やられた」「助けて、助けて」壕内は騒然となり、様々な叫びがとびかっていました。
照屋信子さんの証言:ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック 展示と証言から抜粋
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At the site of the Itosu Second Surgical Cave, which was used as a Japanese Army field hospital during the Battle of Okinawa 81 years ago.
The Itosu Second Surgical Cave served as the Second Surgical Cave of the Okinawa Army Hospital, where wounded Japanese soldiers were brought for treatment.
Located in Itoman City, the Itosu Second Surgical Cave also sheltered members of the Himeyuri Student Corps. According to survivor testimonies, on June 18, 1945, the cave came under attack by U.S. forces, resulting in the deaths of many soldiers and civilians who had taken refuge inside.
現地を歩いてみると、「沖縄戦戦跡1945」という言葉が急に“教科書の見出し”ではなく、足元の現実として迫ってきました。糸満市の糸洲第二外科壕跡(沖縄陸軍病院第二外科壕)は、沖縄戦のなかで野戦病院として機能し、さらにひめゆり学徒隊の避難先にもなった場所です。文章や写真で知っているつもりでも、壕という空間の狭さ・湿気・暗さを想像するだけで胸が詰まります。 私は訪問前に、ひめゆり平和祈念資料館の展示や証言(ガイドブック等)をざっと読み返してから行きました。すると現地では、説明板や周辺の地形が“証言の舞台”としてつながり、沖縄戦 証言 ひめゆりというキーワードが自分の中で具体的な景色に変わっていきます。とくに「壕内がひしめき合っていた」「すでに病院機能を失っていた」といった内容は、単なる情報ではなく、そこで起きた混乱や恐怖を想像させる重い言葉でした。 見学のポイントとしては、まず「ここは観光地というより慰霊・学びの場所」という意識で行くのが大切だと思います。写真を撮る場合も、ふざけたポーズや大声は避け、静かに短時間で。壕周辺は足元が滑りやすいこともあるので、歩きやすい靴が安心です。夏場は湿気と暑さが厳しいので、水分補給も必須でした。 また、「沖縄 心霊」といった切り口で語られがちなのも沖縄の戦跡の難しいところですが、実際に立つと感じるのは“怖さ”というより、圧倒的な現実感と沈黙でした。怖い話として消費するより、沖縄の歴史として、なぜここに壕があり、なぜ避難が起き、何が起きたのかを辿る方が、訪問の意味が深まると思います。 もし時間が許すなら、糸洲第二外科壕跡の訪問だけで終わらせず、ひめゆり平和祈念資料館や周辺の沖縄戦争関連の場所もセットで回るのがおすすめです。同じ「沖縄戦戦跡」でも、点で見るのと線で追うのとでは理解の深さが変わりました。帰り道、沖縄戦の出来事を“遠い昔”に戻さないために、こうして記録が残り、訪ねられる場所があること自体が大事なんだと感じました。