まだ名前のない気持ち
第1話 夕暮れのキッチンで
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・場所は実在のものとは関係ありません。
大人の恋愛をテーマに、心の揺れや感情の機微を描くシリーズです。
味噌汁の湯気が、ゆらりと上にのぼっていく。
鍋のふちで、コポコポと泡が立つ音。
足元では、5歳の娘が「ママ、まだー?」と私のエプロンを引っ張る。
窓の外、夕陽がカーテンの隙間から差し込み、畳の上に淡いオレンジ色の帯を作っていた。
毎日の、ありふれた光景。
でも今日は、その中に小さなざわめきがあった。
ポケットの中のスマホが震える。
手をふきながら画面をのぞくと、「今日も、お疲れさま。」の文字。
送信者は、同じパート先の佐伯さん。
背が高くて、いつも落ち着いた声で話す人。
私より少し年上で、左手の薬指には、光沢の落ち着いた結婚指輪がはまっている。
たったその一文だけで、胸の奥にふわっと熱が灯る。
すぐに「ありがとうございます」と返そうとして、手が止まる。
…返すのは簡単。でも、この気持ちをどうしたらいいのかは簡単じゃない。
最初はただの同僚だった。
レジで小銭を落としたとき、彼がすっと拾って渡してくれた。
「これ、10円多いですよ」って、笑いながら。
その笑顔が、不意に私の心の奥を揺らした。
一緒にシフトに入ると、ふわっと漂う柔軟剤の香りや、少し低めの声で名前を呼ばれる瞬間、
どうしようもなく意識してしまう自分がいる。
もちろん、彼にも家族がいる。
私にも、夫と子どもがいる。
“してはいけないこと”だとわかってる。
でも、理屈では抑えられない。
日常の中で女としての自分を忘れかけていた私にとって、
この感情は、息を吹き返すみたいに鮮やかだった。
罪悪感と幸福感。
両方を同時に抱えている。
LINEの通知音が鳴るたび、胸が高鳴る。
けれど、そのたびに「こんな気持ち、持ってはいけない」と心の奥で誰かが呟く。
それでも――
私はまだ、誰かを好きになることができる。
それだけで、世界が少し色づいて見えた。


































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